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【備忘録】それぞれの「ヒロシマ」 [├ヒロシマ・ナガサキ]

耳を澄まして聞いて下さい。
ヒロシマからの声を…
ヒロシマへの声を…

それぞれのヒロシマ…それは過去の出来事かも知れないが、現在進行形でもある。

原爆開発 女性科学者が初来日 原爆ドームで絶句
8月6日2時35分配信 毎日新聞
http://mainichi.jp/select/wadai/heiwa/news/20080806ddm012040049000c.html

女性科学者、ジョアン・ヒントンさん(86)米国による第二次大戦中の原爆開発計画に携わった女性科学者、ジョアン・ヒントンさん(86)が初来日し5日、広島を訪れた。数万人の命を一瞬で奪った科学に絶望して米国を離れ、中国へ渡って60年。科学者であることを捨て、酪農に従事したが、苦悩がなくなることはなかった。「自分がつくったものがどんな結果をもたらすのか。それを考えず、純粋な科学者であったことに罪を感じている」。しょく罪の意識から、広島訪問をかねて望んでいた。【平川哲也、黒岩揺光】

「オーフル(awful、ひどい)……」。5日午後、原爆ドーム。ヒントンさんは鉄骨がむき出しの最上部を仰いだ。ドーム脇の英語の説明文を一語一語かみしめるように読んだ。「私はただ、実験の成功に興奮した科学者に過ぎなかった」

1945年7月16日、米国南西部のロスアラモス近郊。立ち上る人類初の核実験のきのこ雲に、ヒントンさんは胸を躍らせた。原爆を巡るドイツやソ連との開発競争に打ち勝つため、42年に米国が始めた「マンハッタン計画」。最大時で12万9000人を動員した原爆開発計画が結実した瞬間だった。

「科学を信じていた」。大学で物理学を専攻した21歳のころ、放射線の観測装置を完成させた才女は44年春、請われるまま同計画に参加した。ヒントンさんはプルトニウム精製を担い、全資料閲覧と全研究施設立ち入りを許可される「ホワイト・バッジ」を与えられた。約100人しかいなかったという。核実験の2カ月前にドイツは無条件降伏しており「研究目的の原爆開発であり、使われないと考えていた」。

しかし8月6日。広島上空で原爆がさく裂する。新聞で原爆投下を知ったヒントンさんは声を失った。「知らなかった。本当に知らなかったの」と、まゆをしかめて話した。

戦後は核兵器の使用に反対する動きに加わった。48年、内戦が続く中国・上海に渡った。内モンゴルに移住し酪農を営んだ。消えた足跡に、米国の雑誌は「原爆スパイ」と書き立てた。健在が知られたのは51年、全米科学者連盟にあてた手紙が中国の英字紙で報じられたからだ。それにはこうあった。

<ヒロシマの記憶--15万の命。一人一人の生活、思い、夢や希望、失敗、ぜんぶ吹き飛んでしまった。そして私はこの手でその爆弾に触れたのだ>

あの朝から63年。今なお後遺症に苦しむ人がいる。今なお米国を憎む人がいる。「なんと言えばいいか……」。ヒントンさんは絶句し、宙を仰いだ。

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ヒロシマの語り部…たった1人の鎮魂

原爆で消えた街 たった一人の鎮魂 広島・原爆忌
8月6日11時7分配信 MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080806/trd0808061059009-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080806/trd0808061059009-n2.htm

山崎寛治さん(80)人々が祈りをささげた原爆忌の6日朝、広島市中区の平和記念公園の一角に立つ碑の前に、山崎寛治さん(80)=広島県府中町=が100枚以上の写真を並べた。かつてこの場所にあり、原爆で消えた町・天神町の住民たちが写っている。平和記念式典会場のそばで毎年、たった1人で続けてきた鎮魂の営み。「思いだすことがこの町で亡くなった住民の供養になるはず」と話している。

「この人は針工場のお嬢さん。明るく元気な人じゃったね。こっちはカミナリおやじと呼ばれとったかな。みんなこの近くに住んどったんよ」
山崎さんは、写真に興味をのぞき込む若者らに住民を紹介する。そばを流れる元安川でみんなで川遊びをしたこと、空き地で野球したこと…。そして、かつてこの場所に活気あふれる町があったことを伝えると、若者らはみな驚く。
「みんなごく普通の人だったんだけどね」。写真に写っている約200人のほとんどが被爆死した。

原爆投下の日、山崎さんは、教練を担当していた母校の県立広島第2中学校で被爆した。目の前で閃光(せんこう)が走った後、気がつくと、つぶれた校舎の下敷きになっていた。自力で這(は)いだしたが、ガラスが全身に刺さり、足にもけがをして動けず、その場で一晩過ごした。目は腫れてよく見えなかったが、あちこちでうめき声や叫び声が聞こえた。しかし、朝が近づくにつれ、1人、また1人と声が絶えた。
翌日、這いずりながら約1・5キロ離れた天神町にたどりついた。ところが、そこには旅館や商店が並んでいた町はなく、動くものは何一つ見あたらない。人影はあったが、すべて亡くなっていた。

山崎さんは、近くの川の濁った水を飲み、カニを捕って空腹を満たした。強烈な日差しに焼かれながら、数日間家族の帰りを待った。だが、母たちは骨すら分からないまま。さらに、教え子たちも学徒動員の作業中に天神町の近くで被爆し、約340人が全滅したことを知った。「すぐかたわらにあった遺体が生徒の1人だったかもしれない」。そんな思いもした。

戦後、広島を離れ大阪や山口などで働いた。天神町の跡地は平和記念公園の一部になり、地名もなくなった。山崎さんは「住民を思いだすことで供養したい」と、集めた住民らの写真を原爆忌の日に、犠牲者の名が刻まれた碑の前に並べるようになった。2年ほど前、住民の遺影が、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に登録されていないことに気づいた。山崎さんは登録を申請したが、遺族ではないことを理由に断られた。「いつか遺族と出会うこともあるのではないか」との思いもある。

6日は、63年前と同じような照りつける日差し。「こうやって思いだしたり、話したりすることで供養してあげたい。祈念館に遺影を飾れるようになればうれしいんじゃがね」。そう話す山崎さんの周りには、大勢の人が輪を作っていた。

山崎寛治さん(80) 山崎寛治さん(80)


再会の兄弟が亡父へ誓い 広島・原爆忌
2008.8.6 11:42 MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080806/trd0808061144014-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080806/trd0808061144014-n2.htm

神奈川県遺族代表の川本正司さん(74)=横浜市=と、静岡県代表の弟、司郎さん(71)「兄弟で協力して母ちゃんを助けるんだぞ」。そう言い残して被爆死した父への思いを胸に、6日、初めて2人そろって平和記念式典に出席した兄弟がいる。神奈川県遺族代表の川本正司さん(74)=横浜市=と、静岡県代表の弟、司郎さん(71)=静岡市。「父ちゃん久しぶり」。2人は式典で、父を思いだしながら手を合わせた。

男ばかり5人兄弟の4番目だった司郎さんは、63年前のこの日、自宅近くで友人らと遊んでいたときに原爆が炸裂(さくれつ)。辺りは廃虚と化した。

母、あさ子さんや兄弟たちは間もなく無事が確認できたが、爆心地から約1キロで作業をしていた父、貫一さんは全身やけどで意識がなかった。約2週間後、意識を回復した貫一さんは兄弟を枕元に呼び寄せ、焼けた唇を震わせ、絞り出すように「仲ようして母ちゃんを助けるんだぞ」と言ったが、再び意識を失い翌日、息を引き取った。

一家は長野県に移ったが、生活は苦しかった。戦後2年ほどたったある日、あさ子さんが司郎さんと末の弟を連れて食堂に入った。そこで食べた卵かけご飯は、司郎さんらにとって最高のごちそうだった。その帰り、あさ子さんが、つり橋の真ん中で足を止めた。「帰ろうよ」と司郎さんが言ってもだまったまま。その後、弟が泣きだし、われに返ったあさ子さんは「ごめんね、ごめんね」と繰り返しながら歩きだした。

「母は死のうと思っていたのかもしれない」。そう思ったとき、司郎さんの耳に貫一さんの声がよみがえった。父の“遺言”を果たそうと、新聞配達などをして懸命に働き、あさ子さんを支えた。

あさ子さんは昭和51年に亡くなった。兄弟はそれぞれ独立。連絡をとることも少なくなったが、今年6月、正司さんが神奈川代表として式典への参加が決まった。静岡代表は当初ほかの遺族が出席することになっていたが、キャンセルになった。広島市から出席を要請された司郎さんは「父ちゃんが『兄弟で来い』と言ってるのかもしれない」と代役を買って出た。

式典では、2人そろって慰霊碑の前に立ち、静かに手を合わせて黙祷をささげた。「父ちゃん、仲よくやっとるよ。次は残った兄弟みんなで来たい」。2人の心の中で、父はあのころと変わらず優しくほほえんでくれた。

広島原爆忌:祈り 世代、海を越え 被害各地から参加者
毎日新聞 2008年8月6日 12時10分
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080806k0000e040057000c.html

ヒロシマ--。その名は、非人道的な原爆被害から復興を果たした街として、世界に知られる。平和記念式典の会場には、今年も自らの未来の姿を探そうと各地からさまざまな人々が訪れた。

初来日した中国・新疆(しんきょう)ウイグル自治区出身の外科医、アニワル・トフティさん(45)は「医師として、故郷で白血病などに苦しむ患者に何が出来るか。それを探しに広島へ来た」と話す。

故郷は中国の核実験場の近く。99年、英国人ジャーナリストに協力し、核実験の後遺症とみられる症状に苦しむ人々を描いたドキュメンタリー番組「シルクロードの死神」の撮影に携わり、国を追われた。現在は政治亡命者として英国で暮らす。「私たちの土地では46回もの核実験が行われた。患者を救うためにどうすればいいか指針が見えない。広島でそれを見つけたい」。6日夕、核実験で影響を受けたとされる人が参加するシンポジウムに出席する予定だ。

88年3月にイラクのサダム・フセイン政権による神経ガス攻撃を受けたイラク北部ハラブジャのフアッド・サレ・ラダ市長(37)も初めて広島を訪れた。

毒ガスで約5000人が死亡したとされ、皮膚のただれや肺の障害、失明などの後遺症に苦しむ住民も多い。現地では、原爆を伝えるために06年から毎年8月6日に式典を開いている。ラダ市長は「広島もハラブジャも街が破壊され多くの人が亡くなり、後遺症に苦しんでいる。これを伝えていかなければいけない」と訴えた。【加藤小夜、上村里花】

広島原爆忌 一人で後障害と闘った亡夫 無念語り始めた妻
8月6日12時55分配信 毎日新聞
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080806k0000e040067000c.html

1945年8月6日。廃虚と化した広島で、1人の男の子が産声を上げた。養父母に育てられた少年はやがて陸上選手として活躍し、生徒に慕われる体育教師になった。だが、その生い立ちや原爆による後障害の恐怖を話すことはなく、孤独を抱えたまま56歳で逝った。それから6年。妻は少しだけ夫の死に向き合える気がしてきた。63歳の誕生日となるはずだった6日、墓前で手を合わせ、夫の無念を孫に伝えていくことを誓った。【大沢瑞季、加藤小夜】

太原勲雄(たはら・いさお)さん。原爆投下直後、爆心地近くの自宅で生まれた。母は2年後に原爆症で亡くなり、父も行方不明に。3歳の時、市内で食堂を営む夫婦の養子になった。

高校時代は陸上部の短距離走者で主将。日本体育大に進み、「東京五輪の最終聖火ランナー候補に選ばれたが、最終選考で落選した」と妻和子さん(60)や同僚に話していた。

卒業後、広陵高校(広島市安佐南区)の教師に。泳げない生徒を放課後に特訓する熱血教師で、慕われた。

25歳で結婚。長男、長女を授かった。産まれたばかりの長男を抱き、それまで見せたことのない笑顔を浮かべた。「初めて自分と同じ血が流れる家族ができた喜びだったのでしょう」と和子さん。

しかし、被爆の影はいつもつきまとっていた。30代後半で甲状腺機能障害を患った。被爆者健康手帳を持っていて健康管理手当を受け取ったが、症状が安定するとすぐに打ち切った。「原爆とかかわりたくないんだな」と和子さんは感じた。

同じころ、長男も同じ病気になり、激しい運動が出来なくなった。太原さんは悔しそうに拳を強く握り締めた。「負けるな、強くなれ」。精いっぱいの励ましだった。

再び病魔に襲われたのは55歳。すい臓がんだった。仮退院の夜、和子さんに何度も尋ねた。「自分は何か悪いことをしたのだろうか」。30年寄り添って初めて見た泣き顔。和子さんも泣き崩れた。1年の闘病生活だった。

「原爆がなければ、夫の人生は違うものだったんじゃないか」。和子さんの足は平和記念公園から遠のいた。しかし、七回忌を終えた今年、初めて原爆死没者名簿で夫の名前を確認した。「本音を話せる人がなく、私も聞いてあげられなかった」。その無念や孤独の思いが、少しだけ分かってきた。

近く、おじいちゃん子だった初孫の大智(だいち)君(10)=大阪府吹田市=を連れて同公園の原爆慰霊碑に行く。修学旅行で広島に行くのを怖がっていると聞いたためだ。「こんなひどい事は、二度とあってはいけない」。そう心に刻んでもらいたい。


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みかんママ

僕もくま私もくま様

いらっしゃいませ♪
いつもnice!ありがとうございます。
by みかんママ (2008-08-06 20:02) 

みかんママ

kobakoba様

おはようございます♪
いつもnice!ありがとうございます。
これからもヨロシクお願いしますm(_ _)m
by みかんママ (2008-08-07 08:28) 

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