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東条元首相の手記発見される [├歴史浪漫&ミステリー]

故・東条英機元首相の手記

故・東条英機元首相太平洋戦争の開戦時の首相である、故・東条英機氏の終戦直前直後の手記があったとか。
何だか記事を読んでると、腹立たしさすら感じる部分もあるのだけど、しかし生まれる時代が違っていたら、真の名将になり得たのかも知れないとも思える。
ただ、解釈は様々であるため、このニュースを取り扱った記事(3紙)を全て紹介し、判断は、御目通し下さった方々に一任したい。

書かれた内容がどうであったかなどとは、書かれた本人にしか分かりえない事。
ここで推測を論じても不毛なだけであると思いますので、悪しからず…。

しかしはっきり言える事は、軍人としては有能であったかもしれないが
国を仕切るTOPとしては、力不足だったのかもしれない人材であったと感じる筆者である。

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故・東条英機元首相 極東軍事裁判(東京裁判)での故・東条英機元首相

終戦直前の東条手記「内閣、国民に嘆息」
8月13日8時0分配信 産経新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080813-00000060-san-soci

太平洋戦争開戦時の首相だった東条英機陸軍大臣が、終戦直前の緊迫した情勢の中で心情をつづった手記が国立公文書館(東京都千代田区)に所蔵されていることが12日、わかった。

昭和20年8月10日から14日の間に書かれたもので、昭和天皇が臨席された10日の重臣会議の記述から始まる。東条元首相は政府がポツダム宣言受諾を決めたことについて、11日に「新爆弾に脅(おび)え、ソ連の参戦に腰をぬかし一部条件を付し在りといえども、全く『敗戦者なり』との観念に立ちたる無条件降服を応諾せりとの印象」と政府の“弱腰”を厳しく批判している。

13日には「もろくも敵の脅威に脅え簡単に手を挙ぐるに至るがごとき国政指導者及び国民の無気魄(きはく)」に嘆息を漏らし、自身の責任に言及する。そして14日には首相時代の秘書官にあてて「大義に殉ぜる犠牲もついに犬死に終らしむるに至りしことは前責任者としてその重大なる責任を痛感する。事ここに至りたる道徳上の責任は死をもっておわび申上ぐる」と自決の覚悟を記している。

東条元首相は同年9月にピストルで自殺を図るが一命を取り留め、東京裁判で絞首刑判決を受けて、23年12月に刑死した。手記は東京裁判で東条元首相の弁護人を務めた清瀬一郎弁護士が法務省に寄贈した裁判資料の中にあった。

小堀桂一郎・東大名誉教授の話「生々しさはあるが、新たな発見はこれといってない。ただ興味深かったのは、東条さんのような地位にあった人でも、ポツダム宣言の条件を無条件降服だと思い込んでいたこと。国際法の厳密な解釈ができていないことが随所にうかがえる。また、全面的な武装解除を履行すれば国体の護持はできないという認識は正しく、この点はさすがに軍人だと感心した」

また時事通信社では

東条元首相の手記発見=終戦直前、責任転嫁も-国立公文書館
2008/08/12-13:49 時事通信
http://www.jiji.com/jc/zc?key=%c5%ec%be%f2&k=200808/2008081200416

東条英機元首相が終戦直前の1945年8月10日から14日にかけて書いた手記が国立公文書館(東京都千代田区)に所蔵されていたことが12日、分かった。ポツダム宣言の受諾などに関し「国政指導者および国民の無気魂」と批判、責任転嫁ともとれる言葉を残していた。

昭和史の専門家によると、戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)の被告として巣鴨拘置所で書いた手記は見つかっているが、終戦直前のものは初という。

手記では、当時の政府の講和姿勢を「屈辱和平」「屈辱降伏」と批判する一方、「持てる力を十二分に発揮することをなさず」などと、戦争継続へのこだわりを見せている。

東条元首相の終戦直前手記見つかる…14日に自殺決意記す
2008年8月12日13時42分 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20080812-OYT1T00410.htm

東条英機元首相が、太平洋戦争の終結直前の1945年8月10~14日に書いた手記が、国立公文書館(東京都千代田区)に所蔵されていることがわかった。

手記には、終戦に反発する東条元首相の「本音」が散見され、研究者は「歴史的に価値ある資料」としている。

同館によると、手記は東京裁判で東条元首相の弁護人を務めた清瀬一郎氏が法務省へ寄贈した資料の一部。鉛筆書きの肉筆メモのほか、60年代に和文タイプで打ち直された資料がある。法務省が99年度に同館へ移し、昨年から一般公開の扱いとなった。

8月10日の手記では、「東亜安定と自存自衛を全うすることは大東亜戦争の目的なり、幾多将兵の犠牲国民の戦災犠牲もこの目的が曲りなりにも達成せられざるにおいては死にきれず」(かな部分は原文ではカタカナ)と、重臣が集まった懇談会での自身の発言要旨を記録。

13日には、「もろくも敵の脅威に脅え簡単に手を挙ぐるに至るがごとき国政指導者及国民の無気魂なりとは夢想だもせざりしところ、これに基礎を置きて戦争指導に当りたる不明は開戦当時の責任者として深くその責を感ずる」と自分の考えを記し、当時の鈴木貫太郎内閣や国民を批判している。

終戦前日の14日には、「大義に殉ぜる犠牲もついに犬死に終らしむるに至りしことは前責任者としてその重大なる責任を痛感する。事ここに至りたる道徳上の責任は死をもっておわび申上ぐる」と自らの死を決意している。東条元首相は終戦後の9月11日に拳銃自殺を図り、一命を取り留めた。

昭和史に詳しい作家の半藤一利さんは「終戦直前の手記が公になるのは初めてで、価値がある。終戦間際の揺れる思いがよく分かり、戦況の不利を国民や当時の指導者のせいにする本音が表れていて面白い。終戦直前まで、東条は軍人として戦争継続をあきらめていなかったことは意外だった」としている。

また、東条元首相に関する著書があるノンフィクション作家の佐藤早苗さんは「東京裁判中の手記は明らかにされていたが、終戦前のものは聞いたことがない。感情をあらわにした表現もあり、当時の政府幹部が終戦に傾いていくのを、裏切られたような気持ちで見つめていたのではないか」と話している。

           ◇

■東条英機
1884~1948。軍人、政治家。関東軍参謀長、近衛内閣陸相などを歴任。太平洋戦争開戦時の首相で、戦況が不利になり、44年7月に辞職。戦後はA級戦犯として、極東国際軍事裁判(東京裁判)で裁かれ、絞首刑となった。



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