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【京都旅行】魔界紀行1・六道珍皇寺 [└遠くへ行きたい&旅日記]

不思議大好きな筆者ではあるが、日本の不思議最盛期・平安時代も当然好き♪
京都も数回行った経験もあり、寺社仏閣巡りを重ねていた時期もあった。

まぁ、平安京の不思議話は、色々な意味で暗示的であり、
その人物や世情を極端に表現しているモノでもあるから、
そう言う意味では、現在よりも情緒的なのかも知れない。

少しづつ、記憶が消えない内に(?)UP出来ればと思っている。

*六道珍皇寺
六道珍皇寺 冥界の入り口と言われている井戸

「六道さん」と、言った方が一般の人には聞き覚えがあるのではないだろうか?
「冥府の役人・小野篁」が好きで、六道さんを探したことがありました…が、
最初は探せませんでした(-"-;
2度目は、六波羅蜜寺(六波羅さん)まで辿りつきましたが、その先で迷いました。
こうなったら是が非でも行く! 3度目の正直で行き着きました。

ただの方向音痴…なのかも知れませんが、何度人に聞いても「ない」んですよね、
その場所に…
不思議…ではなく、オカルト好きの友人に言わせると「幽界に迷い込んだのでは?」
あり得ない!

でもそうかも知れない…と、思えるほど、六道さんには独特の雰囲気がある。
「現と冥界を繋ぐ場所」と、言うのは、強ち伝説ではないような気がして来る場所なのである。

小野篁像 小野篁

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閻魔大王を補佐した“怪人”異母妹の亡霊とも抱き合う
12月27日17時37分配信 産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081226/acd0812261900003-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081226/acd0812261900003-n2.htm
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081226/acd0812261900003-n3.htm

都の東端、京都市東山区に「六道の辻」と呼ばれる一帯がある。六道とは、仏教が示す地獄から天までの「あの世」の六つの世界。一帯はかつて葬送の地で、あの世とこの世の境界だった。現在も「轆轤(ろくろ)町」という地名があるが、人の骨が散乱していた様子から「どくろ」を語源としている、とする説もある。

葬送の地に立つ六道珍皇寺(同区小松町)の境内には古い井戸があり、井戸から夜な夜な冥界へ通っていたとされるのが平安初期の官僚、小野篁(たかむら)だ。

篁の怪人ぶりを伝える説話は数多い。冥界では死者を裁く閻魔(えんま)大王の手伝いをしていたそうで、「今昔物語集」には病死して閻魔庁に送られてきた右大臣・藤原良相を、冥界にいた篁が「この人は正直で良い人だから、私に免じて許してください」と大王に頼み、良相を生き返らせた話が出ている。

「篁物語」に出てくる、異母妹と恋に落ちた話はミステリアス。篁の子を宿した妹は、周囲にそのことをとがめられ、絶食の後に憤死する。その後も篁は、妹の亡霊と抱き合っていたという話が出ている。

「怪人」ぶりにふさわしく、その身長は6尺2寸(約188センチ)。同寺には閻魔像の右横に、江戸時代に作られた等身大の篁像が安置されているが、怖い顔をした大王とは対照的に、篁は無表情。しかし、高い位置から見下ろす切れ長の目は、視線を合わせると全てを見透かされてしまいそうで背筋が冷たくなる。

篁にまつわるエピソードはあまりに非現実的だ。同寺の坂井田良宏住職は「天才肌で、すごい人であることは間違いないです」と話しつつ、「伝説は、それが生まれた時代背景と深い関係があると思います」と分析する。

今昔物語集や篁物語が生まれたのは、平安時代後期から鎌倉時代初期。当時の社会には、仏の教えが通じなくなるという末法思想が広がっていた。人々は仏に代わって、篁に救世主としての役割を求めた。

篁の人生は順風満帆だったわけではない。だからこそ、人々は彼の生き方に魅せられたのかもしれない。

父は勅撰の漢詩集「凌雲集」の編纂に携わった小野岑守。篁自身も漢詩に秀で、武芸の能力も高かった。小野家は小野妹子の子孫に当たる名家で、篁は閣僚級の参議にまで上り詰めているが、「親の七光」と言われ、勉学にいそしんだというエピソードもある。

仮病で「仕事」をサボった事件は、篁の生き方を知るうえで欠かせない。

篁は嵯峨上皇からの信任が厚く、遣唐使の副使に任命された。ところが渡航は2度にわたって失敗。承和5(838)年、壊れた船を直して3度目の渡航に臨むのだが、正使の藤原常嗣は乗る船の安全性に不安を覚え、篁の船と交換してしまう。怒った篁は風邪を理由に渡航を拒否、メンツを潰された格好の嵯峨上皇は篁を隠岐へ流した。

流刑は死刑に次ぐ重い刑だが、篁は1年で京都に戻ることを許された。坂井田住職は、「親交が深かった檀林皇后(嵯峨上皇の皇太后)の口添えがあったのは間違いないでしょう」とみている。

さらに坂井田住職は「風邪」に隠されたメッセージを、こう読み取る。「無駄遣いの遣唐使制度を批判したのではないでしょうか。常嗣が正使であることに、『なんであいつが』という対抗心もあったと思う」。

半世紀後、遣唐使は菅原道真によって廃止される。常嗣の一行は結果的に最後の遣唐使になった。

先見性と、努力と才覚に裏打ちされた、前例や「力」にとらわれない振る舞いは、真似のしがたい天才肌に映るが、「配流先の隠岐では、島一番の美人との間に子供もいた。檀林皇后といい、女性にはずいぶんもてた」(坂井田住職)と聞くと、現代の私たちも、その生き方にあこがれを抱かずにはいられない。(渡部圭介)

■小野篁
802~852年。漢学者。書に優れた「三蹟」の一人小野道風や、小野小町は子孫にあたるとされる。一方で行政の不正を監視する勘解由(かげゆ)使も務めるなど、閻魔大王の“手伝い”にはうってつけの職歴を持つ。地蔵信仰の祖ともされていて、篁作とされる地蔵が京都内外の各地に残っている。「千本ゑんま堂」の通称で知られる引接寺(京都市上京区)は、篁が彫った閻魔像を祭ったのが始まりと伝わる。



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みかんママ

僕もくま私もくま様

こんばんわ♪ いつもnice!ありがとうございます。
by みかんママ (2008-12-28 18:42) 

みかんママ

flutist様

こんばんわ♪ いつもnice!ありがとうございます。
by みかんママ (2008-12-28 21:13) 

みかんママ

しもむ様

こんばんわ♪ いつもnice!ありがとうございます。
by みかんママ (2008-12-29 23:59) 

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