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【幕末風情】あの池田屋がパチンコ屋から居酒屋へ? [├歴史浪漫&ミステリー]
最初の欧州人の食文化 [├歴史浪漫&ミステリー]
う゛げ~…『Brother Kiss』ベルリンの壁修復作業 [├歴史浪漫&ミステリー]
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1989年に崩壊したベルリンの壁の残存部分に描かれた、長さ1.3キロの「イーストサイドギャラリー」
壁の崩壊から数か月の間に世界中から集まった118人のアーティストが100以上の壁画を描いた。
しかし長年に渡る天気や汚染の影響、観光客による度重なる破壊行為を受けた壁の修復作業のため、
2009年4月に、これらの壁画は塗りつぶされていた。
ベルリンの壁崩壊から、今年で20年。そりゃ、傷みもするでしょう。
その為にそれまで描かれていた壁画を潰し、壁自体の修復作業をして
歴史的な物として保存しようとしている事自体が、素晴らしい事であると思いますが、
アーティストの言い分も、分からないでもないですね。
有名なキスシーンの壁画『Brother Kiss』の作者であるロシア人アーティストの
ドミトリー・ヴルーベリさんは、壁画が消去された事実を知って憤慨したと報じられていたが、
6月16日(現地時間)、描き直しのためにベルリンの壁と向き合った。
「全部思い出せるかなあ。(前に描いたものと)100%同じではないかもしれない」
11月9日には壁崩壊20周年記念行事が執り行なわれるそうだ。
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【フランス革命】ヴァレンヌへの逃亡…そして [├歴史浪漫&ミステリー]
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フランス革命期のルイ16世が、マリー・アントワネットの愛人とされる
ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン伯の手引きで、
軟禁されていたテュイルリー宮より逃亡…
オーストリア国境付近の村ヴァレンヌで軍に捕らえられてしまう。
俗に言われる「ヴァレンヌ事件」である。
後にタンプル塔へ幽閉された際に書かれた遺言書は有名であるが、
ヴァレンヌ逃亡の際に書かれたものは、写しはあるものの原本がなく、
この時代の歴史に傾倒していた高校時代、筆者は捏造だと思っていた。
所が、出てきたんですね…驚きです。
ルイ16世の直筆遺言、米で発見 逮捕直前に執筆
2009/05/20 22:10配信 共同通信
http://www.47news.jp/CN/200905/CN2009052001001076.html
【パリ20日共同】フランス革命で処刑されたルイ16世(1754-93)が1791年、パリをひそかに逃れ、バレンヌで逮捕される直前に書いた政治的な遺言書「すべてのフランス人に告ぐ」の原本がこのほど、米国で発見された。20日付フィガロ紙が報じた。
遺言の写しはあったが、国王直筆の原本は行方が分からなくなっていた。発見したフランスの研究者らは「歴史の鼓動を伝える第一級の史料」としている。
遺言書は16ページ。逃亡の理由を説明するとともに、国民に向け「(革命派の)誤った友人たちのそそのかしやうそを信用してはならない。国王の元に戻りなさい。王は常にあなたがたの父であり、最良の友人である」と呼び掛け、自らが目指した立憲君主制の正しさを説いている。
ルイ16世の遺書は、1793年の処刑直前にタンプル塔で書かれたものが有名だが、今回見つかったのはこれとは別。
学生時代、筆者は中世史に傾倒していました。
特にフランスのルイ王朝に…
何故なら…ベルサイユのバラ…ではありません。
筆者の場合は、「ラ・セーヌの星」でした(^_^;
高校の世界史の卒業制作では、フランス革命のレポートを提出したり、
かなりの「フランス革命」バカでした…今はその片鱗もありませんが。
当時から、流行そっちのけで、
かなりの異端児だった事は間違いない様ですね(^_^;
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4700万年かけて、人に成りました? [├歴史浪漫&ミステリー]
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ヒトや類人猿の共通の祖先のものと見られる小型の骨格化石?
4700万年前のものと見られる化石で、「Ida」(学名:Darwinius masillae)と名付けられ、
保存状態は非常に良く、欠損しているのは片脚の一部、全骨格の5%にすぎない…
との事だが…
4700万年かけて、すごく成長したんだね~ぇ。
画像を見て思うに、生まれたての赤ん坊の半分以下でしょう?
成獣なのかは分からないが、これが人類始祖なのかと思うと、
図体デカク成りすぎの感もあるけど…(^_^;
それにしても、随分と尻尾が長かったんだね。
体長の1.5倍~2倍はあるかも…(^_^;
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実録:ゴースト・バスターズ♪ [├歴史浪漫&ミステリー]
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好きです、オカルト♪ 何てったって不思議大好きですから。
アメリカはニューメキシコ州に、築180年のお化け屋敷があるとかで、
「西海岸心霊・超常現象協会」が調査に入ったらしい。
この超常現象協会、これまでに200件以上の調査実績があるらしく、
「不思議な現象の理由を科学的に解明する」との触れ込みで実績を上げているとか。
しかしこれまでの調査の内で、僅か5%程度ではあるが、
どうしても科学的に説明がつかないケースもあったという…。
今回の調査はドキュメンタリー専門のテレビ局・ディスカバリーチャンネルの撮影隊も同行し、
番組が放送されるまで調査結果は公表されないというから、もったいぶらせなのである。
科学は万能ではないからね。
科学で証明できる事の方が、少ない気もするもの。
こんな事言ったからって科学を否定し、オカルトを肯定している訳ではない。
人智を超えた何かは存在する。
ただそれが何かは今の所、科学では証明できない…それだけの事な訳です。
でもこの建物、外観はいかにもって感じですよね(^_^;
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【DNA鑑定】リンカーン・晩年病気 [├歴史浪漫&ミステリー]
【ベルリンの壁崩壊秘話】仕組まれた崩壊劇だった? [├歴史浪漫&ミステリー]
■事件の経緯(Wikipediaより)
1989年11月9日、「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令案が東ドイツ政府首脳部に提案された。クレンツをはじめとする政府首脳部は国内のデモや国外に流出する東ドイツ市民への対応に追われ、また2日前の11月7日にヴィリー・シュトフ首相が解任されて、翌11月8日にハンス・モドロウを首相に任命することが決まったばかりの混乱の中であったため。大した審議もされず、政令の内容を確認したかも怪しい状態で、「11月10日から、ベルリンの壁をのぞく国境通過点から出国のビザが大幅に緩和される」政令が政府首脳部の審議を通過した。この政令の内容を発表する東ドイツ政府のスポークスマンであったギュンター・シャボウスキー(社会主義統一党政治局員)は、この会議には出席しておらず内容をよく把握しないまま、現地時間19時頃から記者会見を始めてしまい「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表した。
この記者会見場に詰め掛けたジャーナリストは当初半信半疑で、「(この政令は)いつから発効されるのですか?」と質問したところ、上記の通り翌日の11月10日の朝に発表することが決められていたにも関わらず、それを伝えられていなかった(文書に記載されていなかったとも、次の紙に書いてあったのを気が付かなかったとも言われている)シャボウスキーが「私の認識では直ちにです。」と発表した。このいわば爆弾発言を受けて、事態は急速な進展を見る。後に国境ゲート付近でゲートを越えようとする市民と、指令を受け取っていない警備隊との間で当該指令の実施をめぐるトラブルが起きることになった。又マスコミによって「旅行が自由化される」の部分だけが強調されてしまったことも混乱に拍車を掛けてしまった。
この記者会見の模様は夕方のニュース番組において生放送されていたが、これを見ていた東西両ベルリン市民は(ベルリンでは電波が当然にスピルオーバーとなる為、東西双方がお互いのテレビ番組を視聴することが可能であった)半信半疑で壁周辺に集まりだした。一方、国境警備隊は指令を受け取っておらず、報道も見ていなかったため対応できず、市内数カ所のゲート付近ではいざこざが起きはじめた。21時頃には東ベルリン側でゲートに詰めかける群衆が数万人にふくれあがった。門を開けるよう警備隊に要求し、やがて「開けろ」コールが地鳴りのように響く状況となった。
ふくれあがった群衆に、さして多くはない国境警備隊は太刀打ちできず、また現場にいない上官は責任逃れに終始したため、責任を押しつけられた現場の警備隊は対応に困り果てた。また同年の六四天安門事件の影響もあり、武力弾圧という手段はとうてい不可能で、事態を収拾する策は尽きていた。日付が変わる直前の0時前、ついに警備隊は群衆に屈し、ゲート開放が行われ、東西ベルリンの国境は開放されることになった。
本来の政令は、あくまでも「旅行許可の規制緩和」がその内容であって、東ベルリンから西ベルリンに行くには正規の許可証が必要であったが、混乱の中で許可証の所持は確認されることがなかったため、許可証を持たない東ドイツ市民は歓喜の中、大量に西ベルリンに雪崩れ込んだ。西ベルリンの市民も、騒ぎを聞いて歴史的瞬間を見ようとゲート付近に集まっており、抱き合ったり、一緒に踊ったり、あり合わせの紙吹雪をまき散らすなど、東ベルリン群衆を西ベルリン群衆が歓迎する様子が各所でみられた。この大騒ぎはそれから三日三晩続くことになる。数時間後の11月10日未明になると、どこからともなくハンマーや建築機械が持ち出され、「ベルリン市民」はそれらで壁の破壊作業をはじめた。壁は東側によって建設された東側の所有物であるが、東側から壁を壊していい旨の許可は一切出されていない。しかし数日後からは東側によって正式に壁の撤去が始まり、東西通行の自由の便宜が計られるようになった。
以上がベルリンの壁崩壊の経緯である。
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