SSブログ
リンク&ご支援、ご協力お願いします!
SA・TO・MI ~娘への想い~
http://blog.goo.ne.jp/npo-friends
【ご協力のお願い】広島女子高生刺殺事件:当ブログでの紹介記事

NET de ボランティア総合案内
レッドクリフ+日本赤十字社 活動資金への協力
SayLOVE 2008 ~飢餓・貧困のない世界作り

間寛平 地球1周「アースマラソン」
地球1周「アースマラソン」
EARTH MARATHONYouTubeBLOG

歴史を学ぶという事 [├戦争と平和・現代史]

歴史を学ぶことは大事だ。しかし、本当に重要なのは今何が起きているかを知り、これから何をするかだと思う

フィリピンで日本軍の被害に遭った一般住民の孫に当たる、16歳の少年の言葉です。

毎日新聞 2008年7月28日 東京朝刊
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080728ddm001040079000c.html

戦犯にも様々な方がいる。
本来裁かれてはならない人が裁かれ、処刑されていた事実をご存知の方が
一体どれだけいらしゃるでしょうか?

私が一番ショックだったのは、捕虜収容所のある軍属の調理担当者の話。
食料に困り、ある食材を使い捕虜の食事を作り与えた事が罪に問われたそうです。
日本では「それ」は滋養強壮に良い、食物繊維豊富な食材で、今でも煮物にも用いられます。
ところが終戦後その調理師は捕虜の食事に「木の根」を用い虐待を強いた
と、してB級戦犯として裁かれ、収容所でその生涯を終えた…と、記憶しています。
さて昨近の学校教育で加害歴史をメインに教えて下さっている先生方が多いと聞いています。
またそう思っている筆者ですが、先生方はこの事実をご存知でしたか?

人気ブログランキングへ
↑ポチッとクリック、お願いします。


この捕虜虐待の汚名であった食物は「ゴボウ」でした。
捕虜の健康を考え配慮した挙句、虐待の汚名…
所詮敗戦国の国民の処遇とはそんなものです。
そうやって歴史は戦勝国によって、戦勝国の都合が良いように書き換えられて行くのです。

教科書で、書物で、または経験談から…歴史を学ぶ機会は沢山あります。
子供たちはその中で何が正しく、何が間違っていたのが、
判断する事が出来る心を持って育って欲しいと望まずにはいられません。

起こしてしまった過ちの全てを否定する事は、後世の教訓とするには、全く用を成しません。
そんなのこの国の国会だけで充分です。
反対反対ばかりで「では対案は?」と、問えば沈黙か屁理屈。
戦争は確かに悪です。
しかしその戦争の極小規模の行いを私たちは常日頃から起こしています。
戦争はダメ!でもその極小規模のいざこざは良いとする理論は、
矛盾しているように感じる筆者です。他の方はどうなのでしょう?

外交決裂の手段として戦争は用いられがちです。
国際法上「宣戦布告」がなされれば問題がないとも定められています。
即ち、闇討ちではなく「果たし状を突きつけ」始められる戦争は、
国際法で認められているのです。

しかし戦争で得られるものは何もないのではないでしょうか?
先ごろ、戦犯の元死刑囚の獄中日記が見つかりました。
戦争に身を置き、携わって来た方の生きた声だと思います。

正しい歴史を知るのは難しい事ではないと思います。
多くの人の話に耳を傾ける気持ちが、少しでもあるのであれば…

モンテンルパ元死刑囚・鳩貝吉昌さんの獄中日記

太平洋戦争:モンテンルパ元死刑囚の獄中日記見つかる
毎日新聞 2008年8月13日 13時20分
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080813k0000e040063000c.html

太平洋戦争中にフィリピンに派遣され、戦犯として死刑判決を受けながら1953年に恩赦で帰国した元憲兵の日記類が見つかった。自身に対する戦犯裁判の詳細なメモや獄中での生活、日本で帰りを待ちわびる妻子への思いなどがしたためられている。

見つかったのは06年6月に95歳で亡くなった埼玉県新座市の鳩貝吉昌さんの手帳とノート5冊。家族が遺品を整理中に発見した。

鳩貝さんは41年から中国やフィリピンに赴任。終戦で捕虜となり、住民虐殺の罪に問われた。国会図書館に残る裁判記録によると、事件への関与を否定したが、48年12月に銃殺刑の判決を受けた。モンテンルパのニュービリビッド刑務所に収容されたが、恩赦により他の死刑囚らと共に53年7月に帰国した。

記録されているのは、48年の裁判の詳細メモと51~53年の獄中での生活。48年の3人処刑後、執行がなかったが、51年1月19~20日に14人が処刑される。このころの日記には、毎晩身を清めて処刑に備える様子などがつづられている。

また、1月24日には「戦争そのものが人道的には相反している」「孫子の代まで軍人にはしたくない。戦争はいやだ」と戦争への率直な思いを吐露。25日には「勝者が敗者を一方的に裁いた」と戦犯裁判を批判している。

家族への思いが多くを占めるが、刑務所内での生活に併せ当時の周辺状況なども端々に読み取れる。51年ごろは訪問者が少なく、処刑も覚悟しなければならなかったが、53年ごろになると、日本とフィリピンの議員らの訪問を受けたり、所内で野球に興じたりしたことも記されていた。

帰国できることを知った53年6月28日には「夢のようだ。待ちに待った内地送還(中略)家族もどんなに喜んでいるだろう」と興奮冷めやらない思いをつづった。

フィリピンでの戦犯問題に詳しい広島市立大広島平和研究所の永井均講師は「死と向き合う苦悩や戦犯の服役状況が克明に記されている。フィリピン当局の日本人戦犯への慎重な処遇や、恩赦に至る獄中の雰囲気の変化なども分かる内容だ」と話している。【曽田拓】



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0



 ポイント ちょびリッチ ポイントサイト「ポイントインカム」 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。