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歴史に残らない歴史 [├戦争と平和・現代史]

幻の特攻基地と言われている鹿児島県の「万世飛行場」
ここから飛び立った特攻隊員で有名なのは「子犬を抱く少年兵」の写真の荒木幸雄 陸軍伍長。
この写真はひとり歩きし、知覧飛行場から出撃したかのようにも伝えられていたこともあったようです。



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今更ではありますが、今でこそ我が子と年の差がない若者が、
スクラップ同然の零戦で、敵へ体当たりで攻撃し死んでいく…
あの当時の狂った何かが、国を作っていく若い命を蔑ろにして
屍の上に国を築こうとしていた、悲しい時代…

語り継ぐ人たちも年々お年を召されて、聞かせて頂く機会も無くなりつつあります。
貴重な体験談を記す為にも、ここでご紹介させて頂くこととします。

国のために、自らの死を以って今の時代を築きあげて下さった
先人の尊き犠牲に感謝すると共に、ご冥福をお祈り致します。

唯一、聞いてみたい…あの時代を生きてこられた方々へ…
今の日本は、皆さんが夢に描いておられた日本と同じですか?

万世飛行場の滑走路だった遊歩道 万世特攻平和祈念館に展示されている零式三座水上偵察機

【街物語】幻の特攻基地から旅立った若者たち
9月21日16時22分配信 産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080921/trd0809210755004-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080921/trd0809210755004-n2.htm
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080921/trd0809210755004-n3.htm

8月の鹿児島。照り付ける太陽の下、一直線に伸びる遊歩道、そのかなたには東シナ海が広がっていた。この遊歩道は、太平洋戦争終戦間際の昭和20年、隼(はやぶさ)などの戦闘機が砂ぼこりを立てて次々と離陸した滑走路だった。操縦桿(かん)を握る若い隊員は特別攻撃隊。南薩摩地方の真夏の風景を、まぶたに焼き付けて死出(しで)の旅路へ向かったことだろう。

鹿児島県では知覧、鹿屋(かのや)、指宿といった特攻隊の出撃基地が知られているが、南さつま市加世田(かせだ)の日本三大砂丘の一つ、吹上浜の一角にあった「万世(ばんせい)飛行場」は、秘密裏に突貫工事で建設された陸軍特攻基地だった。昭和20年3月から7月までしか使用されなかったことなどから、「幻の特攻基地」といわれている。
基地は「幻」でも、万世飛行場から201人が特攻隊員として出撃、散華(さんげ)したことは厳然とした歴史の事実である。

********************

万世飛行場から飛び立った隊員には、17歳から20代前半の若者が多かった。
戻らなかった搭乗員の一人、第66戦隊所属の賀美(かみ)正一軍曹も21歳だった。地元に住む川口アヤ子(79)は、この青年の思い出が焼き付いている。当時、16歳だった。
「どういうきっかけで私の家に来始めたのかわからないが、何人かでよく来て私の母と話していました。賀美さんは早く実母を亡くしたと言っていたので母を慕っていたのかもしれません」
親しみを感じたアヤ子は、賀美軍曹に布と綿を使って作った10センチぐらいのマスコット人形を贈った。

昭和20年5月4日、出撃前の夜だった。「家の座敷であぐらをかいて、じっと上を見ていたのを覚えています。何を考え、何を話しかったのか」。出撃当日も賀美軍曹は川口さん宅を訪れ、1枚の写真を手渡した。

「真新しい写真でいい顔をしていた。裏には『マスコットありがとう。このマスコットと供に必沈の意気益々旺盛。母上によろしく』と書いてありました」
賀美軍曹の搭乗機はアヤ子の自宅上空を旋回して飛び去り、帰ることはなかった。「賀美さん、国のためにありがとう」。そう思いながら、母と一緒に一晩中、泣いた。
「恥ずかしい年ごろで、ほとんど話もできず、マスコットを贈るのが精いっぱいでした」
思い出を語った報道がきっかけとなって、平成17年に賀美軍曹の親族から連絡があった。

賀美軍曹の写真は今は手元にない。「当時の資料を貸し出すうちに、行方不明になってしまった」

********************

部下らを失った万世飛行場の元通信兵が、地元に残っていた。「出撃機の搭乗員は突入直前、相手が戦艦か空母かを、モールス信号で送ってくる。その信号をレシーバーをつけてじっと待っていたんです」と話すのは加世田電子工業の代表取締役、小田又次(85)だ。

昭和20年3月18日の空襲で亡くなった通信隊の部下、杉浦正俶(まさとし)軍曹=当時(18)=の弔いのため、戦後も加世田で暮らすことを決めた。自ら興した会社で積極的に障害者雇用にも努め、藍綬褒章を昨年受章。その一方で、杉浦軍曹が空襲で被弾した場所を訪れ、慰霊を欠かさない。
万世飛行場跡近くで当時から酒店を営む高木敏行(75)も、飛行場に深くかかわってきた。

小学生のころ、極秘に建設が始まった飛行場の作業に従事する労働者を見かけるようになった。「中国・八路軍などの捕虜だった。家の前の松林で休憩しているときに、母が芋をあげたら喜んで、彼らの食料だったコッペパンと交換したりして、交流が始まった」
高木の父親は、軍の酒保(売店)の仕事で中国に渡航する機会が多かった。実兄もハルビンの医科大学を卒業した関係で、高木は中国語が話せた。父親が北京にいることを中国語で話すと、たちまち北京出身の労働者が集まり、仲良くなったという。

飛行場を狙った空襲もあったが、「防空壕(ごう)で生き延びた」。終戦後は残った飛行機のタイヤで草履を作ったり、補助タンクで海水を炊いて塩を作って売ったりした。高木は「戦争はむごい。平和でないと駄目だ」と力を込める。

飛行場正門の門柱が今も県道20号沿いに残っている。その近くに平成5年、「万世特攻平和祈念館」が開館した。祈念館までの道には慰霊の石灯篭(どうろう)が続く。

1階には、前年に吹上浜から引き上げられた零式三座水上偵察機の残骸(ざんがい)が展示され、2階には飛行場から出撃し、戦死した多くの若者の遺影が飾られている。戦友とともに、精悍(せいかん)な顔をした賀美軍曹と杉浦軍曹も並んでいた。(文・写真 大塚智彦)


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みかんママ

omutu様

おはようございます。nice!ありがとうございます。
by みかんママ (2008-09-22 09:24) 

みかんママ

くらいふ様

おはようございます、お久しぶりです♪
nice!ありがとうございます。
by みかんママ (2008-09-22 09:25) 

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