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【今日は何の日】東京大空襲から64年… [└時事:今日は何の日?]


夜のしじまを破って、街が寝静まった頃合を見計らい
無情の空襲警報が鳴り響く…

「ほら、さっさと起きんかぁ、○子!」

そう言って祖母は、まだ物心ついて間もない母を叩き起こし、
非常持出袋を背負わせた。
3~4歳の母には、滅茶苦茶重い代物だった聞いた。
祖母はまだ1歳になるかならないかの叔父を背負い、
防空頭巾を母と叔父に被せ、足が縺れる母の手を引き、
家の近所の防空壕に飛び込む…

母に聞いた、戦時中の記憶だそうだ。
母は当時、現在の針生…海上自衛隊佐世保基地の近くに住んでいた。
攻撃目標地域だったと言われている。

今日は、東京市民死者・行方不明者は10万人以上の甚大な被害を出した
東京大空襲の日です。

▼参考リンク
 ■東京大空襲(Wikipediaより)
 ■東京大空襲(田村のホームページより)
 ■東京都慰霊堂
 ■震災復興記念館

縁あって、空襲被害が大きかった墨田区界隈に住んでいた事がある。
まだ幼かった長女と次女を連れて、徒歩で15分ほどの横網公園へ散歩に行ったものだ。
ここにある慰霊堂と記念館は、関東大震災と東京大空襲にまつわるもの。
未だにその鮮烈な展示品の数々は、筆者の中で強烈な記憶として残っている。

震災空襲慰霊堂
慰霊堂内部
震災復興記念館

明日、職場の研修会で東京へ出る。
少し足をのばして、訪ねて行ければと思っている。

今の日本の礎を築いてくださった、名もなき偉大なる方々に
感謝と哀悼の意を表します。
そして64年後の戦争を知らない若輩者ではありますが、
ご冥福をお祈りさせて頂きます。

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東京大空襲「あの夜悔やみきれない」…家族失った女性が手記
3月10日14時40分配信 読売新聞
Yahoo!news:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090310-00000644-yom-soci

東京大空襲から10日で64年。あの夜、母親ら家族6人を一度に失った東京都文京区の亀谷敏子さん(77)が今月、手記を出版した。

「なぜ、あの時……。悔やんでも悔やみきれない」。手記には、ともに生き残った父にさえ話せず、自責の念を胸にしまい込んで戦後を生きた女性の、魂の叫びが込められている。

敏子さんは1945年3月の空襲当時13歳。深川区(現江東区)の自宅で両親と姉、妹3人、1歳の弟との8人暮らしだった。3歳上の兄は、海軍飛行予科練習生(予科練)だった。

空襲警報が鳴り響いた9日深夜、低血圧の敏子さんはなかなか布団を出られなかった。母は敏子さんを父に任せ、ほかの子を連れて先に家を出た。

避難先は、近所の食品会社の地下室。敏子さんと父がたどり着いた時、ビル内は満員電車のような状態だった。地下室に近づけず、ビルに火が燃え移ったため、父と娘は別の場所に逃げた。

4日後、地下室の遺体が次々と引きあげられた。「五体そろった遺体がほとんどない、想像を絶する光景だった」。しかも、消火の水が地下室で沸騰したのか、ゆであがったような状態に。二、三百人が地下室で亡くなったと言われる。

変わり果てた家族と対面した。母は顔で確認できたが、1歳の弟、5歳と10歳の妹は服装で判別するしかなかった。15歳と12歳の姉妹の行方はわからない。父は、家族の遺体が運ばれる前に一部を削り取り、焼け跡で火葬した。ショックと疲れで涙も出なかった。

3か月後、今度は兄の俊治さんが茨城県で空襲に遭って死亡した。兄の入隊に猛反対だった両親は、志願しないよう、学校も休ませ、自宅に閉じこめていた。

ある日、敏子さんは兄から予科練の願書をもらってきてくれと懇願された。「お国のために働きたいというのに、両親はなぜ反対するのか」。敏子さんは兄の頼みを聞き入れ、兄に代わって投函(とうかん)した。兄は44年4月に入隊。母と幼い弟や妹は疎開も考えていたが、「家族全員が一度顔をそろえてから」と兄の帰省を待つ形で東京に残っていた。

「もし、私が願書を出さなければ、兄は予科練に行かず、家族も疎開していたのでは」

父は72年に他界。敏子さんは近年、人に請われて少しずつ体験を話すようになった。兄の話もできるようになったのは、ここ数年のこと。「一人で抱えているのは苦しいけど、話したからといって解放されるわけでもない。思い出したくないけど、忘れちゃいけない」。敏子さんはそう話す。

「語り継ぐ東京大空襲--3月10日、家族6人を失う さらに少年兵の兄まで」は、本の泉社(電03-5800-8494)から。早乙女勝元さんとの共著の形になっている。(稲村雄輝)

東京大空襲で両親亡くした女性、遺品に「戦争恨みます」
3月10日15時57分配信 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090310-OYT1T00738.htm

昨年8月に93歳で他界した長野市の女性の遺品から、東京大空襲で焼死した母の眼鏡が見つかった。

眼鏡のレンズは、母の命を奪った炎で黒く焦げていた。女性は生前、形見の眼鏡のことを家族に話すことはなかったが、眼鏡を包んでいた紙の裏にこう記していた。「戦争を恨みます」――。大空襲から10日で64年。眼鏡の焦げ跡は今も生々しい。

昨年の終戦記念日の3日後に病気で亡くなった松田露さんの自宅で、長女の大畠充代さん(60)(東京・江戸川区)が遺品の整理をしていた際、タンスの中から花柄の包装紙に包まれた眼鏡ケースを見つけた。

ブリキ製のケースは焼け焦げ、中に入っていた眼鏡も左のレンズが熱で黒く変色していた。

包み紙の表には、露さんの字で「お母ちゃんの思ひ出」と書かれていた。紙を広げると、裏側にも書き込みがあった。「空襲で亡くなったお母ちゃんの死体から千ちゃんおじさんが持って来てくれた形見のめがね 戦争を恨みます」

両親とともに東京・浅草周辺に住んでいた露さんは、戦争が始まると夫とともに長野市の知人宅に疎開した。露さんは当時、長男を身ごもっていた。東京に残った両親は、1945年の大空襲で炎に包まれた自宅の中で命を落とした。露さんの弟の「千ちゃんおじさん」が、焼け跡から母・三原松きみさんの遺体を発見。着衣のポケットにあった眼鏡と印鑑を、形見として露さんに届けたのだった。

大畠さんによると、露さんは生涯、初孫を両親に見せられなかったことを悔い、戦争を心から憎んでいたという。露さんが母の眼鏡をしまっていたタンスからは、露さん自身の思いをしたためた1枚の便せんが見つかった。

「戦争さえなかったら……」で始まる文章は、「早く降伏を受け入れていれば、沖縄、広島、長崎の惨禍を招かずに済み、私も東京大空襲で肉親を全部亡くさずに済みました」などと書かれていた。文末には「昭和最後の夜 昭和六十四年一月七日」とあった。

「眼鏡のことも文書のことも知らなかった。本当に戦争が憎かったんでしょうね」と、大畠さんは亡き母に思いをはせる。

大畠さんは、祖母の形見の眼鏡を露さんのお墓に入れようとも考えたが、「戦争の現実を知ってもらう資料にしてほしい」と思い、昨年10月、「東京大空襲・戦災資料センター」(東京・江東区)に寄贈。同センターは10日から、露さんの「思ひ出」を展示する予定だ。(稲村雄輝)

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みかんママ

chunta様

こんばんわ♪ いつもnice!ありがとうございます。
by みかんママ (2009-03-10 22:38) 

みかんママ

すけろく様

こんばんわ♪ いつもnice!ありがとうございます。
by みかんママ (2009-03-10 22:38) 

みかんママ

あや様

おはようございます、初めまして♪
nice!&ご訪問ありがとうございます。
これからもヨロシクお願いします♪
by みかんママ (2009-03-11 07:10) 

みかんママ

CROW様

おはようございます♪ いつもnice!ありがとうございます。
by みかんママ (2009-03-11 07:12) 

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